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【書籍レビュー】『仕事なんか生きがいにするな-生きる意味を再び考える』は子育てにも通じる内容でした。

最近、泉谷閑示(いずみやかんじ)さんの著書『仕事なんか生きがいにするな-生きる意味を再び考える』を読みました。

子育ての参考になる部分も多く、わたし自身とても学びの多い内容だったので、本の紹介とレビューをまとめます。

私のような子育て真っ最中の人はもちろん、

  • 人生でやりたいことがない(わからない)人
  • これまでの生き方に疑問を感じ、これからの生き方を模索している人
  • 生きることに意味を求め、生きがいを探している人

にも刺さる内容だと思います。

というより、むしろそういう人に向けて書かれた本だと思いますので、思い当たる人はぜひ参考にしていただければ嬉しいです!

『仕事なんか生きがいにするな-生きる意味を再び考える』はどんな本?

2017年1月に幻冬舎より発行。著者である泉谷閑示さんは精神科医です。

近年「やりたいことがない」「何をしたいのかわからない」「生きる意味が感じられない」といった悩みを持つクライアントが急激に増えている。

本書では、そのことに対して問題意識を感じた著者が、「生きる意味を問う」という人間ならではの「実存的な問い」に正面から向き合い、考察することが主なテーマとなっています。

  • 「働く」とはどういうことか?
  • 「本当の自分」とは?
  • 「生きる意味」はあるのか?
  • 「愛」と「欲望」について
  • 「心=身体」と「頭」の働きについて

などなど、誰もが生きる上で一度はぶち当たる疑問や問題について、過去のさまざまな文献を参照しながら、鋭い分析と洞察で、丁寧な説明が展開されています。

文章は論理的で明快。テンポ良く読めるので、あっという間に読めました。

さらに、読む人の立場や状況によって、いろんな視点で読むことができるのもこの本の魅力の一つ。

わたし自身は、

  • 子育て中の親としての視点
  • 中年期を生きる1人の人間としての視点

でこの本を読みました。

以下では、この2つの視点を踏まえて、本書から学んだことや考えたことをまとめます。

親の言う「あなたのためよ」は、子どもにとっての殺し文句

「やりたいことがわからない(ない)」

これって、本当によく聞く悩みの一つですよね。本屋さんに行っても、やりたいことの見つけ方や自分探しについて書かれた本が山のように置いてある。世の中の人が、いかにやりたいことに飢えているかがよくわかります。

ではそもそも、なぜやりたいことがわからないのか?

彼らは共通して、「そもそも何が好きで何が嫌いなのか、あまり考えたこともない」と語り、幼少期から親が一方的に用意した習い事や「お受験」に埋め尽くされて、自身の「好き/嫌い」を表明することもできないまま、受動的に育ってきた歴史を持っています。

引用元:『仕事なんか生きがいにするな-生きる意味を再び考える』(p.22)

本書の第一章でいきなり告げられるこの事実。

「やりたいことがわからない」の根本的な原因は親にある。

そう言われて、親であるわたしは衝撃を受けました。

確かに、いまの子ども達って、本当に忙しそうなんですよね。親戚や友達の子どもの話を聞いても、遊ぶ時間なんてないんじゃないの??と思うほど、毎日のように何かしらの習い事や塾などに行ってます。

そうやって育った子どもは、自分の「好き」や「やりたい」を感じることのないまま、もしくは、たとえ「好き」や「やりたい」があったとしても、それをやらせてもらえないまま大人になる。

親の敷いたレールの上を歩いているうちはそれでもやっていけたかもしれない。でも、ひとたび社会にでれば、全ては自分の選択次第。

そうなった時に、いきなり「やりたいことはなんですか?」と言われても、もはやそれを感じ取るセンサーが働かなくなっている。

これまでやったことがないことを、いきなりやれと言われてできないのと同じですよね。

そう考えると、これは当然の結果かもしれません。

かく言うわたしも、1歳になったばかりの娘に英会話を習わせようとしているわけで。

親としてできること(やってあげたいこと)と、子どもが本当に求めていることが、ちゃんと合致しているかどうか。

この見極めが、本当に大切だと思いました。

子どものためにと思って始めたことが、必ずしも子どものためになるわけではない。むしろそれが、子どもの主体性を失わせ、本当にやりたいことを見えなくさせる可能性がある。

このことは、親として、常に肝に銘じておかなければならないこと。親のエゴを子どもに押し付けることだけはしたくないですね。

「活動的な人」=「やりたいことをやっている人」ではない

わたしはよく周りの人から、「活動的」とか「行動力がある」と言われます。実際、自分でもそう思います。

でも、自分のやっていることが、果たして本当に「やりたいから」やっていることなのか?と聞かれたら…。

本書では、一見活動的に見える行動でも、それが自分の中の「空虚さ」を紛らすために行われているのであれば、その行動は「受動」の一種であると述べられています。

「社交的にいろんな人たちと交流する」「日々を有意義に過ごす」「自分が成長するように時間を大切に使う」といった学校レベルでは大いに奨励されそうな行動も、「空虚」からの逃避がその隠された動機なのだとすれば、これもやはり「受動」の一種に過ぎないと言えるでしょう。

引用元:『仕事なんか生きがいにするな-生きる意味を再び考える』(p.35)

わたしの場合は特に、「時間を無駄にしてはいけない」という固定観念が強くあるので、なにかというとすぐ、勉強だの資格だのと手を出しては、何かしらの知識やスキルを身につけようとする傾向があります。

これも、動機を突き詰めれば、勉強を「やりたいから」やる、資格を「取りたいから」取る、ではなくて、

何もしていない(何ももっていない)自分だと不安。だから、知識やスキルという武器を身につけて安心したい。

そういう心理が働いているんですよね。

もちろん、心からやりたくてやってる勉強もありますよ!でも、全部が全部そうとは限らないということ。

普段、「活動的」とか「行動的」と言われる人ほど、その活動や行動が「受動」になっていないか。それをチェックする習慣をもっておく。

そうすることで、自分の行動が「本当にやりたいこと」なのか「空虚さからの逃避」なのかが区別できるようになるのではないでしょうか。

生きる「意味」を求めることと、生きる「意義」を求めることは違う

この「意味」「意義」の違いについては、なるほどと思う部分が大きかったです。

現代に生きる私たちは、何かをするに際して、つい、それが「やる価値があるかどうか」を考えてしまう傾向があります。このような、「価値」があるならばやる、なければやらないという考え方に、「意義」という言葉は密接に関わっています。つまり、私たちが「有意義」と言う時には、それは何らかの「価値」を生む行為だと考えているわけです。(中略)

しかし、一方の「意味」というものは、「意義」のような「価値」の有無を必ずしも問うものではありません。しかも、他人にそれがどう思われるかに関係なく、本人さえそこに「意味」を感じられたのなら「意味がある」ということになる。つまり、ひたすら主観的で感覚的な満足によって決まるのが「意味」なのです。

引用元:『仕事なんか生きがいにするな-生きる意味を再び考える』(p.105-106)

「生きる意味」を「価値のあること」、つまり「生きる意義」と取り違えていることが、生きる意味を考える上で問題を難しくしていると著者は言います。

このことに関して、ここで少し、わたし自身の過去の経験をお話しさせてください。

大学生活を「追っかけ」に捧げた女の話

わたしは大学生の時、ある男子バレーボール選手の追っかけをしていました。大学生活の4年間を、ほぼその人に捧げたといってもいいぐらい熱狂していました。

わたしのやっていたことは、社会的に何の価値(意義)もないことでしたが、4年間、情熱の限りを尽くして、大好きなバレーボール選手を追いかけたことは、わたしにとっては間違いなく、「意味」のあることでした。それによって、わたしの心は満たされ、喜びや感動をたくさん感じることができたからです。

あの頃のことは、大事な大事な青春の1ページとして、いまだにキラキラした思い出として残っています。それぐらい、わたしにとってはなくてはならない活動でした。

でも、悲しいかな、就職活動ではめちゃくちゃ苦労しました。なぜなら、就職活動では「意義」を求められるからです。

面接官に向かって「大学生活の4年間で一番力を入れていたことは、バレーボール選手の追っかけです!」とは、言えませんから。(いまなら言えますけど。笑)

つまり、自分が感じている「意味」と、社会が求めてくる「意義」が違うんですよね。

この両者の間には決定的なギャップが存在していて、それもまた問題をややこしくしている要因ではないかと思います。

仕事のやりがいや楽しさについて

ついでに言えば、仕事にやりがいや楽しさを感じられる人ほど、このギャップが小さいということも言えるのではないか。

このギャップをいかに埋めていくかは、仕事や働き方を考える上で、わたし自身の大きなテーマでもあります。

なんだか話が脱線気味ですが、生きる意味を考える時には、この「意味」「意義」の違いを知っておくことが重要だということです。

「生きる意味」は自分で決めていいのだ!

「自分探し」=「仕事探し」ではない

「やりたいこと」を考える時、無意識に「やりたい仕事」を考えてしまう。

これもやりがちですよね。わたしは思いっきりやってました!笑

「真の自己」が自分の内ではなく外に想定され、そしてそれがすでに社会に用意されている「仕事」とのマッチングによって実現するはずだ、と言う考え方は、確かに人々を終わりなき「自分探し」、すなわち終わりなき「仕事探し」という迷路に追い込んでしまうものである。それが問題だという指摘なのです。

引用元:『仕事なんか生きがいにするな-生きる意味を再び考える』(p.117-118)

自分探しを仕事探しに結びつけてしまう理由としては、「好きなことを仕事にしよう!」「やりたいことで食っていこう!」という、近年の世の流れも関係していると思います。

好きなことを仕事にして生きていくことにはわたしも憧れます。ただ、仕事ありきで「本当の自分」「やりたいこと」を探しても見つかりません。これはわたし自身の経験から言えることです。

仕事というのは「すでにあるもの」なので、仕事を前提とした自分探しは、既存の型の中に自分をはめ込む作業と同じです。

自分探しの出発点は、あくまでも「自分」

図で表すとこんなイメージでしょうか。

仕事ありきの自分と自分ありきの仕事のイメージ図

意識のベクトルが外(仕事)→内(自分)に向いているか、内(自分)→外(仕事)に向いているかが大きな違い。

あとは、仕事ありきの仕事は、はっきりとした枠で囲まれているのに対し、自分ありきの仕事は、はっきりとした枠がなく、ぼんやりしている。つまり、いかようにも形を変えられるといったイメージです。

この本のタイトルは『仕事なんか生きがいにするな』ですが、わたしは別に、仕事を生きがいにしたっていいと思う。(そもそも、このタイトル自体が、本の内容を的確に表してるとは言い難いのですが…)

大切なのは、自分を起点に仕事を考えるということ。

そうすれば、自分の特性を活かしたやりがいのある仕事が見つかるかもしれないし、ないならないで、自分で仕事を創るという選択肢も生まれるかもしれない。

著者が言いたいのもそういうことではないでしょうか。

自分の可能性は無限大なのだ!

「頭」の声に騙されてはいけない

本書の最後では、日常を「味わう」ことで「生きる意味」が感じられるようになると述べられています。そして、日常を味わうための「遊び」の必要性も強調されています。

ただ、この「遊び」を行う上で障害となるのが「頭」の働きであるということも本書では述べられています。

「頭」というのは、人を幸せにもするし不幸にもする。本当に“取り扱い注意”の代物だということは、わたし自身、ここ数年でようやくわかってきたことです。なので、本書に書かれていることには納得しかありませんでした。

だいたい、心の「やりたい」を邪魔してくるのは、いつも「頭」なんですよね。

なにかというと「そんなことできるわけない」「それって意味あるの?」「うまくいかなかったらどうするの?」といった、ネガティブワードのオンパレードをぶつけてくる。

せっかく湧いたやる気を、全力で削ぎに来るからびっくりします。笑

そんななかでも、「頭」の働きについて、今回、新たな発見がありました。

「面倒臭い」と言う感覚について書かれている以下の部分です。

「頭」には、そもそも効率よく結果を得ようとするせっかちな性質があって、「面倒臭い」という感覚はここから生じてきます。勘違いされることが多いのですが、この「面倒臭い」と言う感覚は「心」の声ではなくて、「頭」由来のものなのです。

引用元:『仕事なんか生きがいにするな-生きる意味を再び考える』(p.174)

自他共に認める筋金入りの面倒くさがり屋のわたしですが、この「面倒臭い」が頭からきていたとは!てっきり心の声だと思って、面倒臭いことはすべてスルーしてました。笑

「面倒臭い」が頭由来のものだわかった以上、これから「面倒臭い」と感じた時には、一旦立ち止まって、ちゃんと考える必要があります。

「面倒臭い」の裏で、大切なものがたくさん失われているとしたら、勿体なさすぎる!

ちなみに、本書では、「面倒臭い」に惑わされない方法として、あえて「面倒臭い」と感じることを積極的に歓迎してみるという考え方が提案されています。

これに関して、ちょうど先日、自分でも面白いなと感じた出来事があったので紹介しますね。

「面倒臭い」が「楽しみ」に変わった話

もともと、子どもを保育園に預けることには前向きだったわたし。娘が生後半年を過ぎたあたりから、そろそろ一時保育を利用してみたいな〜、と思うようになりました。

でも、保育園に預ける時って、ほとんどの場合、事前に見学に行く必要があるんですよね。親としても、子どもをどんな場所に預けるのかは見ておきたいという気持ちもある。

でも、そこで出てきたのが「面倒臭い病」でした。

保育園には預けたいけど、見学に行くのは面倒臭い。

これがあって、なかなか行動に移せませんでした。

でもある時、自分がこれまでの人生で「保育園」という場所に行ったことがないことに気づいたんですよね。外から見かけることはあっても、中に入ったことがない。

つまり、わたしにとって、保育園は「未知の世界」だということに気づいたんです。

するとたちまち「保育園ってどんなところだろう?」「中で何が行われているんだろう?」という興味が湧いてきた。

で、いままで面倒臭いと思っていた保育園の見学が、「いろんな保育園を見られるのって楽しいかも♪」に変わったんです。

好きなカフェ巡りをするみたいに、保育園巡りをすればいい。

そう思ったら、一気に気が楽になり、見学に行くのが楽しみになりました。

同じ行為をするにしても、考え方によってこうも違う。「面倒臭い」を歓迎するとは、こういうことなのではないでしょうか。

まとめ

今回は、精神科医である泉谷閑示(いずみやかんじ)さんの著書『仕事なんか生きがいにするな-生きる意味を再び考える』について、個人的に参考になった部分や、新たな発見があった部分を中心に紹介しました。

正直、わたし自身、まだまだ理解が未熟な部分はありますし、拙い文章力でどこまでこの本のエッセンスを伝えられたかわかりません。

ただ確実に言えることは、この本に書かれていることが、生きる上でとても大切なことばかりだということ。

生きることに真剣に向き合っているすべての人に、この本が届けばいいなと本気で思っています。

個人的には、これまで他の本で学んできたことや、自身の経験から感じていたことが、この本を読んだことで、より明確に理解できた気がしています。

おかげで泉谷さんの他の書籍にも興味が湧き、すでに『「普通がいい」という病』『「私」を生きるための言葉』の2冊を購入しました。いま読んでいる途中ですが、どちらもすごく興味深く面白い内容なので、また機会を見つけてブログで紹介したいと思います!

ではでは!

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